フィリピン留学②、ハイジという先生について、prostitute

フィリピンでの授業はほとんどがワンツーマンということもあって、担当の先生達とは自然と懇意になった。なかでもハイジという先生とは色んな話をした。

とある日、いつもはニコニコしているハイジがなんだか浮かない顔をしているので、どうしたのか訪ねてみた。彼女は妹から電話があったのだと言った。彼女は(たしか)6人兄弟の次女だった。

「母がね、もし私が死んだらハイジを天国から呪うわ、って妹に言ったんだって。妹はそれを私に伝えるよう母から頼まれたんだって」

私は意味がわからなかった。なぜ母が娘を呪うのだ?ハイジは続けた。

「私の兄弟は全員もう結婚してるの。だから、親へ仕送りして面倒を見るのはまだ独身の私の役目だって言うのね。でも、私、お給料のほとんどを母に渡してるの。それでもまだ全然足りないって言うのよ、なぜそんなに足りないのかわからない」

お母さんは働いていないのか尋ねると、ハイジは首を振った。

「私は働けないんだって言うの。なんでかわからないけど…。でも私、まだ23歳よ。同僚はみんなお給料で好きなことをするのに、どうして私は自分で働いたお金を全部親にあげなきゃいけないの?」

そう呟きながら、虚空を見つめる彼女の大きな瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていった。

「私には外国人の彼氏がいる。さおにも話したでしょ?それを母親に言ったら、あの人なんて言ったと思う?」

わからない、と私は目で返事をした。

「どうしてその彼氏からお金を取らないんだ、って。ねえ、さお。どうして私が好きな彼氏と寝て、それでお金を貰わなくちゃいけないの?」

眉根を寄せながら、ハイジはファック、と涙声で言った。

私は言ってはなんだが、すごく家族仲がいい。だからハイジにも両親の話や兄の話を沢山した。「さおは本当に家族が大好きなのね」と笑顔で言ったハイジ。いったいどういう気持ちで私の話を聞いてくれていたのだろうか。

台湾人の元彼のイヌも、ハイジのことを知っていた。私達は3人でもよく話をした。

フィリピン留学を終えて暫くした後、2人で食事をしているときにイヌが切り出した。

「さお、今から言うことは誰にも言っちゃいけないよ」

いつになく真剣なので、こちらも真面目な顔つきで、なにごとかと先を促した。

「ハイジはprostituteだ」

prostituteがどういう意味の単語だったか、思い出す前にイヌは続けた。

「俺さ、ハイジがやけに学校で有名だなあってことに気づいたんだよ。だって、みーんなハイジのことを知ってるんだ。だから、仲のいい先生に聞いてみた。なんでハイジはそんなに有名人なのか、って。そしたら、そういうことだったよ。ハイジが何人かの生徒とキスをしてるのを見た人がいるんだって」

私はフォークを持つ手を止めたまま、イヌの顔を見つめたまま、ただただ「どうして私が好きな彼氏と寝て、それでお金を貰わなくちゃいけないの?」と涙を流していたハイジのことを思い出していた。それは不思議な気持ちだった。イヌの言うことに腹が立ったとか、否定したいとか、そういう気持ちはなくて、只々「そういうこともあるかもしれない」、そして「それでも私はハイジと友達でいるんだろう」と、そう静かに思うだけだった。それが彼女の現実であり、私の現実でもあったのだ。

ハイジは学校の職を辞め、今はオンラインで生徒を持っているらしい。私にもレッスンを取らないか、との連絡があった。私はあいにく時間がないと断りを入れ、ハイジもそれを了承した。彼女は今日も一生懸命に生きているのだなぁと思った。もう2度と会わないかもしれないけれど、元気でいてほしいなと思う。

愛犬を亡くした、犬猫に対する庇護欲、フィリピン留学①

数年前に、愛犬を亡くした。享年18歳で、犬種はミニチュアダックスフント。年をとっても毛並みがよく、可愛い顔をしていて、飼い主側がもう随分な老犬であることを忘れる程若々しい外見をしていた。本人はそれなりに年を取ってしんどい思いもしただろうに、こちらが呑気なもので申し訳なかったという気持ちさえある。何よりも食べることが好きだったこの犬は、最後は何も食べなくなって数日後、眠るように息を引き取った。

家族全員でわんわん泣いた。祖母の葬式では涙を見せなかった父ですら泣いた。

 私は人一倍動物への愛着が強い人間だった(と思う)。たまに動物虐待のニュース等を見ると3日間くらい平気で落ち込んでいて、もう人間でいるのを辞めたくなってしまう。中学生のときは女優のブリジット・バルドーが好きだったこともあって、彼女が傾倒している動物愛護運動に熱を上げていたから、肉の類は一切食べなかった。映画で少しでも動物が痛めつけられるようなシーンがあると、もう2度とその作品は見なかった。私自身、動物のこととなると急に折り合いがつけられなくなる自身の傾向にやや困ってもいた。

フィリピンのセブ島へ2ヶ月程留学をしたことがある。英語を学ぶためだ。寮から学校への間に、土が剥き出しのかなり歩きづらい道があって、そこには屋台がずらっと並んでいた。これは地元の人が毎日朝食を食べたり、夜に酒を飲んだりするまさにローカルな屋台だった。外国人ならちょっと躊躇してしまうような風貌で、毎日なんとも表現しがたい匂いが漂っていた。

その屋台にはいつも野良犬が何匹かいた。客のおこぼれを貰うために彼らは徘徊をする。何匹かで連れ添って、町の中心の公園で小便をし、ある程度満足したらコンビニエンスストアの前でその体を伏せて目を閉じる。

少し離れた島へ友達と泳ぎに出かけたときも、犬達はいた。私達がランチをテーブルで食べている傍で、じっと座っていた。3匹程いたと記憶しているけれど、どの犬も食べ物をねだるような真似はしない。只々、距離を置き、じっとこちらを見ているだけだ。そうしつけられていたのか、彼らがそういう「マナー」を自ずと学んだのかはわからない。こちらが「よしよし」なんて撫でようとすると、彼らは逆に迷惑そうな顔をして身をすくめた。

私は日本生まれの日本育ちなので、いわゆる愛玩犬としての「犬」しか知らない。名前があって、人間を見たら尻尾を振って寄ってくるそういう「犬」だ。小さい頃には「野良犬」というのもいた気がするけれど、最近はめったに見なくなった。

日本を一歩飛び出して見る犬達は、自分の食うための術を知っている野生の生き物だった。

それ以来、なんだか犬猫に対しての過剰な庇護欲が収まった感がある。

私がバイセクシャルだった頃、風俗嬢の可愛い彼女

少し前まで、私は正真正銘のバイセクシャルだった。何が正真正銘なのかと聞かれたら困るけれど、なんというか、割と対等な割合で男も女も愛していた。もしかしたら少し女に偏っていたかもしれない。

今の私はどうか? ほぼヘテロだ。魅力的な女性と出会ったら恋に落ちてしまうかもしれないから、「完全にヘテロ」とは言い切れない(バイが嫌われやすいのはこういうところだろうな)。けれど、一般的に女性のパートナーと出会うのは男性のそれを見つけるより努力を要するし、そう考えると腰が重くなってしまう。昔はもっと貪欲だった。いろんな女の子に出会いたかったし、そのための労力を惜しまなかった。だから今の私は「ほぼヘテロ」というわけだ。

 

そんな私がエネルギーに満ち満ちていた21歳のとき、しばらく1人の女の子と付き合っていた。彼女は2つ上の23歳で、いわゆるギャルで、風俗嬢だった。

彼女はとても容姿に恵まれていた。顔は可愛かったし、細身で胸はHカップ。表情が豊かで、多少の感情の起伏はあったがそれを素直に表現する術を知っていて、誰とでも打ち解けられる雰囲気を持っていた。基本的には明るく朗らかだったが、生い立ちがやや複雑だったせいか、人の闇を「うんうん」と受容できる底の深さみたいなものもあった。

思い返せば私は、精神的にも肉体的にも彼女に散々甘えていたと思う。彼女も私に依存していたところがあって、私が異常な頻度で彼女に連絡をしても、すべてそれに応えた。

そして、私の貪欲な性的好奇心にも応えてみせた。ネットカフェで、新幹線のデッキで、そういう「不適切」な場所で私が彼女の下着に手を差し入れても、彼女はそれを甘んじて受け入れた。声を出さないように、眉間に皺寄せて。その苦悶に近い表情を、私は今でもよく覚えている。

彼女の体は丹精な人形のように美しかった。大きな胸、引き締まったウエスト、形のいいヒップにすらっと伸びた足、白く滑らかな肌。そして小さく上品なヴァギナ。

この体を何十人の(何百人かもしれない)男が見たのだろう、そして抱いたのだろう。私は彼女が風俗嬢として働くことに一切の不満を持たなかった。彼女としてはそれがやや不服だったようだ。けれど彼女は自身の仕事に少なからず誇りをもっていたし、私も彼女が風俗嬢として働いていることは至極まっとうに思えた。彼女の体は特A級のものだし、彼女は人に快感を与える術を知っている。私はいつもタチだったから、彼女に体を預けたことはない。けれど、たまに彼女からキスされると、気持ちよくて腰が砕けそうになった。

男達がそれなりの金額を払って手に入れるこの体を、私は簡単に手に入れてしまえる。いつだって、どこでだって。その事実に目眩がするほどの優越感と興奮を覚えた。その豊満な胸に好きなだけ顔を埋め、ヴァギナを両指で開いて眺め、クリトリスを舐めた。

 彼女が在籍している風俗店のホームページを見たことがある。彼女は必死に隠していたようだけれど、私は彼女の源氏名を知っていたし、働いている地区も知っていた。インターネットで店を突き止めるのは容易いことだった。

そこには彼女の写真が3枚と、簡単なプロフィール、店からのコメントが添えられていた。彼女はそこでは私と同い年の21歳で、前職はカフェのウェイトレスということになっていた。私の予想通り、彼女は人気嬢だった。3枚の写真の中で、彼女はそれぞれ自身の体を魅力的に見せるポーズを取って微笑んでいた。その強調された胸は、ヒップは、私が触れていたものだ。けれど、そこでは彼女は「彼女」ではなかった。私はしみじみと彼女が「商品」であることを悟った。私は彼女にホームページを見たことは言わなかった。

私達の関係は、彼女の言葉をもって突然に終わりを迎えた。春のことだった。彼女は具体的に別れたい理由を述べなかったけれど、私は驚かなかった。いまや私達の間には、それまで関係を維持させてきた、好奇心と興奮が溶け消えてしまっていた。それは炭酸が抜けてぬるくなったコーラのような関係だった。だから彼女の申し出をすんなり受け入れることはできた。彼女は恋人関係を解消しても友達でいようと主張した。私はなんと返していいかわからず、結局そのままになってしまった。

それから随分と時が経った。彼女が当時在籍していた店のホームページを検索してみる。彼女は相変わらずそこにいた。3枚の写真はすべて違うものに変わっていたが、相変わらず彼女の体は美しかった。「絶大な人気」と店はコメントしていた。あれから彼女は2つ年を取って、今は23歳ということになっていた。今の私の年齢は、もう彼女を上回ってしまっている。

ふと、彼女に連絡を取ってみようかという気持ちになるときがある。元気なのか、幸せなのか、そういう下らないことを聞いてみたくなる。けれど、優しい彼女がそれに答えてくれたからといって、いったい何になるだろう?

彼女が私を受け入れてくれていたときの、あの眉間の皺を思い出す。彼女は今でもああやって、人々の欲望を受け入れているのだろうか。そこには彼女の底の深さがある。前向きな諦めがある。私こそが、彼女に癒されていた客の1人だったのかもしれない。

過食の夜明け前、嗜好品と森鴎外、ありのままの君が好き『ブリジット・ジョーンズの日記』

ああ、苦しい。相変わらず食欲が止まない。

特に夜が辛い。何かを食べる、食べてすぐ寝るのは罪悪感があるから暫く起きている、起きてると何か口に入れたくなる、という最悪な無限ループになる。

 

元々食べる方だし、過去には過食嘔吐の気もあったけれど、ここまでの過食は人生初だと思う。本当に怖い。なんだか食べることで自分を殺そうとしているようにも思える。特に、普段はそんなに口にしないスナック菓子を今回はもう散々貪り食っている。美味しいです。それに、止まらない。

それで思った。

体に良くないのは明白なのに、中毒性のあるこういう商品を作り続けるっていうのは一体どういうことなんだ?うん、ほとんど逆恨みですよ。

「嗜好品」をWikiを引いてみると、

嗜好品という用語は1912年(大正元年)の雑誌「太陽」に掲載された森鴎外の短編小説「藤棚」の記述によるという。

 

『藥は勿論の事、人生に必要な嗜好品に毒になるような物は幾らもある。世間の恐怖はどうかするとその毒になることのある物を、根本から無くしてしまおうとして、必要な物までを遠ざけやうとする。要求が過大になる。出來ない相談になる』

— 森鴎外「藤棚」、『太陽』第18巻第9号、1912年

つまり「体に毒」でも、そこはある程度残しておかないと、人は欲求を満たすためにどエライことをしてしまう、ということらしい。なるほど。

今回の私の過食の理由は多分2つある。ひとつはホルモンバランス。次にストレス。実は去年の夏からこちら、常にダイエットを意識していたようなところがあって、私にしてはかなりストイックな生活を送っていた。断っておくと、太っていたわけじゃない。ただ、体重の割に下半身だけがどうも太かった。そして私の元彼のイヌは足フェチだったので、お気に召してもらえるよう必死になっていたわけだ。ははは。はー、悲しい。

筋トレと有酸素運動をかなりしっかりとし、食事量は少なく、小麦系のものや乳製品、ジャンクフードを徹底的に避けた。それが知らず知らずのうちに結構なストレスになっていたみたいだ(それだけ頑張ったにも関わらず、彼とは結構ひどい形で別れてしまったし)。まさに「毒になることのある物を、根本から無くしてしまおうとして、必要な物までを遠ざけやうとする。要求が過大になる。出来ない相談になる」。うーん、さすが森鴎外

 

太って痩せて、なんてことを考えていたら、レネー・ゼルウィガーを思い出した。役のために10kg程体重を増やして、撮影が終わるとさっさと元の体重に戻してしまったというすごい女優だ。

彼女の代表作『ブリジット・ジョーンズの日記』を見返した。

ブリジットに恋心を寄せるマーク・ダーシーが言う。

「I like you just as you are」(ありのままの君が好きだ)と。

今日ほどこの台詞が腑に落ちたこともなかったと思う。そう、そうなのだ。結果的に過食に突っ走ってしまうほどのダイエットをしないと叶わない相手なら、そもそも2人の関係はボタンの掛け違いみたいなものだったのだ。

タバコが吸いたい、VAPEの話

しかし、映画ってタバコを吸うシーンが多い。昨日観た『17歳のカルテ』でウィノナもアンジーもパカパカ吸っていた。

実は最近、ずっとタバコが吸いたくて吸いたくて仕方ない私。5年前に禁煙して以来、まったく吸いたいと思わなかったのになぜだろう?ニコチンの根強さというのは恐ろしい。吸いたい吸いたい吸いたい。また喫煙者生活に戻るか?お金を使い、煙くさくなり、どこへ行っても喫煙所があるか気にしてそわそわするのか。ああ、いやだ…でも吸いたい… と、ネットでタバコに関して検索をかけまくっていたら。隊長、いいもの見つけました。

「VAPE」って知ってますか? 水タバコみたいなもので、果物やドリンクのフレーバーのついたリキッドを機械に入れて加熱して、その煙をタバコのように吸うというもの代物だ。ニコチン・タールフリー(製品によってはニコチン入りのものも有)

これだ。これなら罪悪感なく吸える。ということで速攻買いに走ってきた。

Vape専門店の中は、甘い煙で真っ白でびっくりした。若い女の子2人組がちょうど選んでいる最中で、「へー女の子も買うんだ」なんて自分のことを棚に上げて思う。

「初心者なのですが」と店員さんに告げたら、icosのようなペンタイプの機械と、箱型のものをショーケースの上に出してくれた。初心者にはこの2種類のどちらかがおすすめらしい。前者の方が5000円程度と安かったのでそちらに決める。だが、フレーバーを試させて貰っているうちに、どうも箱型の方が煙の勢いが良くていいなぁと思えてきた。箱型は煙の量が調整できるので、いわゆる「爆煙」状態になれる。

結局箱型の方の機会と、青りんごフレーバーのリキッドをひとつ買った。

ひとり入店した男性客がコーヒーフレーバーを探していて、そっちも気になったし、なんならタバコフレーバーなんてのもいいかもなぁと思ったけれど、辞めておいた。でもタバコフレーバーなんて吸い始めたら、やっぱり本物のタバコを吸いたい!とならないのだろうか?

帰ってきてから早速吸ってみた。もちろんタバコのような刺激はないけれど、甘い香りが肺いっぱいに広がる。この口から煙を吐く感じは久しぶりにするといいものだ。

なにせ換気扇の下に移動したり、灰皿を用意したりする必要もないのがいい。タバコを吸っていたときは、吸いながら作業がしたいがために、わざわざ換気扇の下までパソコンを持っていったりしていた。灰を床に落として慌てて掃除したり。ハタから見ると結構惨めだったと思う。

さあ、どうだろうVAPE。長く仲良くできるといいのだけれど。

『17歳のカルテ』、10代の危うさ、「甘ったれのお嬢さん」の葛藤

ふと気が向いて映画『バーレスク』と『17歳のカルテ』を鑑賞。

17歳のカルテ』はそれこそ17歳くらいの頃に1度見たことがあって、ウィノナとアンジーの可愛さだけが鮮明に残っていた。今日もその可愛い2人に会いたくてさらっと流すつもりだったのだけど、結局全部観てしまった。

この作品は「メンヘラ映画」と一言で片付けられてしまうんだろうか。この作品を好きだと人に言ったら、一瞬戸惑われたりするのだろうか。わからないけど、私はこの映画が好きだ。昔見たときよりもずっと。

登場人物は全員精神的な障害を背負った若い女の子達。10代のときって、私もやっぱりふらふらしていた。過食やら自傷の気もあった。ただ、自分が病んでいるとは思わなかった。青春を全力で享受し、謳歌することよりも、色々なことに疑問を持ったり絶望したり、死にたくなったりすることの方が私にとっては自然だった。「そこ」にいたいとも思っていた。

作中でスザンナ(ウィノナ)は黒人のカウンセラーから「甘ったれのお嬢さん」と言われる。「自分で自分を貶めてるんだ」と。スザンナはそんな現実を認めたくないから、エキセントリックで破滅の道へ突き進むリサ(アンジー)に憧れのような気持ちを持ちながら、彼女とつるむようになる。だが、とある少女の「破滅」を実際に目の当たりにしたことで、スザンナは自分とリサの徹底的な違いを知ることになる。そして、現実世界へ戻る決意をする。

そう、私もスザンナだった。ハタから見れば恵まれた生活、それでも埋まらない何か。そういうものに苛立ちや絶望を覚えるのに、どうしたら解消できるのかもわからない。いっそ死んでしまいたい。でもできない。それなら死んだように生きたい。心を冷たく固くして。

「甘ったれ」。そう言われたらそうだ。勝手にひとりでのたうち回っているんだ。でも10代ってそういうものだった。だから私はもうあの頃に戻りたくない。そして、時代が変わった今でも、きっとたくさんのスザンナがこの世界に実在しているのだと思う。彼女達もこの映画を観るのだろうか。

さくらももこ『さくらえび』、英語力の維持、スティーブ・ジョブズのスピーチ、直感で食べる

久々にさくらももこのエッセイを読んだ。タイトルは『さくらえび』。息子がよく保育園休むなあというところと、「サンルーム」という単語にびっくりした。やっぱり「ちびまる子ちゃん」って貧乏を押し出してたから。そうか、今では「サンルーム」のあるご自宅にお住まいですか、へえ、という気持ちになった。まあお金持ちで当たり前なのだけれど。

 

英語を話さない環境なので、当たり前だけれど、英語力がどんどん落ちていく。特に会話に関してはちょっと酷い。オンライン英会話もなんだか億劫でサボり気味だ。こう言ってはなんだが、ディスプレイ越しに初対面の先生と「はーい、ないすとぅみーちゅー」「はーい、はわゆー」「ぐっ!さーんくす」とかやってる時は、私なにやってるんだろう…という気持ちになる。日常的に英語を使っていない日本人が英語を話す「非日常」に移行するときは、かなり、テンションを上げなくてはいけないのだ。

こんななので、せめてと思って、英語字幕で映画やドラマを見たり、読み物をしている。

今日はスティーブ・ジョブズハーバード大学で行ったスピーチを読んでいた。すごく今更ですけど。

 

「直感に従え」「前もってどんな経験が役に立つのかはわからない、後になってからわかる」「死を思えば、プライドや何かを失う恐怖なんてものは捨てられる」

 

並べると自己啓発みたい?うーん、でも、そうだよなあ。特に「直感に従え」っていうのは、すごく、響いた。簡単なようだけど、自分に自信がないとこれは怖くてなかなかできない。

 

だからというわけじゃないけど、日々の食べるものについても直感に従えばいいんだと最近は思う、ただいま過食期の私。ただ「体にいいから」って理由で食べる何か、それは意味があるんだろうか。スイーツを選ぶときに「本当はフレンチトーストが食べたいけど、大福にしとこう」とか。せっかく食べているのに、妥協や躊躇をして「美味しい!」「幸せ!」って思えないのはなんだか寂しいし、新しくストレスを作ってるような気がするなあ。

というわけで、直感に従って、夜にジャンクなものをこれでもかと食べる私。まあ今はそういう時期なんだろう。たぶん。