結婚していたかもしれない、自分が自分でいること、2組の親子

大人になったら、結婚して子供でもいるんだろうなぁと、昔は漠然と思っていた。だが大人になった今、そうはなっていない。友達も半分くらいは所帯を持っているけれど、半分くらいは私と同じ独身で、ときどき恋人がいたり、いなかったりする。

「結婚問題は相手がいないと始まらない。だからひとりで頭を抱えても仕方ない」というのが今の私の考えだ。

けれど「こうなっていたはずの自分」から外れているという状況は、たまに絶望的な発作を起こさせるものだ。そして、何かがおかしいんじゃないかと疑う。原因を自分の中で探し始める。過去にとんでもない間違いを犯したんじゃないか。実は自分は人格破綻者なんじゃないか。自分が自分であることに不安を覚える。どこかまったく違う場所へ逃げたくなる。でも「ここ」以外に行ける場所なんてどこでもない。何があっても、自分と手を離してはいけないのだ。「僕が僕をやめること それがいちばんいけないことだよ」とcali≠gariが歌っていたように。

 

DVDをTSUTAYAへ返しに行った帰り、親子連れの自転車を見かけた。母親は金髪のボブスタイル、服装は全体的に黒っぽく、ミニスカートにオーバーニーソックスを履いていた。格好からしても、20歳を少し過ぎた頃だろうか。とにかく若い。彼女は道の真ん中で、2歳くらいの男の子を自転車から下ろしているところだった。男の子は母親のショルダーバッグを片手に掴んでいて、おぼつかない足取りで2、3歩よちよちと歩き、同時にショルダーバッグを地面でずるずると引きずった。

「何すんのよ!!!」

母親は叫び声を上げ、怒涛の勢いで男の子の手からバッグをふんだくった。男の子はこてんっと後ろ向きに倒れた。そして泣き出した。もちろんだ。彼の体重からすれば、その力のなんと強かったことだろう。「あーあーもう!!」男の子の泣き叫ぶ声より一層甲高い声で母親は重ねた。

「ふざけんなよ!!」

そして忌々しげにバッグの汚れを手で払った。

その何日か後に、公園のそばを歩いていたら、向かい側の道を小さな男の子が泣きながら歩いていた。幼稚園の制服を着ているのと、背丈からして5歳くらいだと思う。母親はどこかと思ったら、男の子の前方20メートル程のところをひとりの女の子がスタスタと歩いている。驚いた。それが母親というより、まぎれもなく「女の子」だったからだ。20歳になっているのかも定かじゃない。明るい茶色のセミロングで、上下スウェットのような服装にサンダルだった。

男の子は彼女の背中を追いかけながら「おかぁさんー、おかぁさんー」と泣き続けている。母親は一切振り返らない。こういう光景はばつの悪いものだけれど、実際に「無視する」という仕打ちをあえて子供に与える母親は少なくない(いいか悪いかは別として)。今回もそうかと若干もやもやしたものを抱えながら私は母親を追い越した。瞬間、彼女が小さく笑っている気配を感じた。そして私は、耳元に収まっている白いイヤホンを認めた。彼女は携帯で誰かと談笑しているのだ。私は思わず目を閉じた。

「おかぁさんーっ、っお、かぁっさんー」

男の子は泣きすぎて、その声は半分嗚咽に近くなっている。そして、その声は母親に届くことは決してないのだ。彼女はその現実を丸ごと遮断して、ないものにしているのだから。

春の柔らかな陽の中で見たこの2つの場面は、本当に胸糞の悪いものだった。せめて雨ならよかった。

 

くそったれ。ガキがガキ育てやがってロクでもねえ。

 

そして、私はこうも思う。

もし私が若くして子供を持っていたら、ああいう仕打ちを我が子にしただろうか。

もちろん答えはNOだ。けれど、誰にそんなことがわかるだろう。

そうだ。あれは「そうなっていたかもしれない自分」だ。自分のバッグを乱暴に扱われて苛立ちを隠せない自分。目の前の会話に夢中で他のことなんてまるでどうでもいい自分。

そうはならないと、いったい、誰が断言できるのだ?

そういう風に思うとき、私は背筋がすっと寒くなる。自分が自分からゆっくりと遠く離れていくのを感じる。そして、慌てて手を掴む。しっかりと自分を抱きしめる。絶対に何があっても離さない。そう、強く強く思うのだ。

歩くこと、単純作業、マクドナルドと日曜日の夕方の孤独

今日はすごくいい天気で、少し暑いくらいだった。リュックを背負い、市立図書館まで散歩がてら、てくてく歩いていった。途中、少し道に迷ったり、汗ばんできたりとそれなりに色々あったのに、図書館は在庫点検のため休館だった。はー。

自宅から市立図書館までの道のりは片道5kmある。どうしてこう歩くことが好きなのか自分でもわからない。こんなだから出かけるときはGoogle map で目的地までの距離を測るのが癖になっていて、7kmくらいまでなら徒歩で行こうと即決してしまう。いや、たとえ10kmでも、時間さえ許すなら徒歩で行くかもしれない。

歩くときは常にイヤフォンをしていて、音楽やPodcastを聴くか、または、何か考えごとをしている。逆に、何か聴きたいときや、考えごとをしたいときに歩きに行ったりもする。と考えると、肉体にひたすら規則的な運動をさせつつ、頭を別次元へ「飛ばす」というのが気分転換になるのかなぁ。そういう意味では、工場のライン作業のアルバイトも結構楽しかった。ひたすら決まった数のチョコレートを詰めたり、コーヒーを詰めたりしながら、頭の中ではまったく別のことをずっと考えていた。「単調作業」といわれる分野のアルバイトだけれど、私は考えごとを沢山できたおかげで、仕事が終わったあとはなんだか少しクリエイティブな気持ちにすらなっていた。

とにかく、また徒歩で来た道を引き返して夕方になり、地元の近くでマクドナルドへ入る。図書館で出来なかった勉強をここで少しやってしまおうと思ったのだ。私が店内にいた約2時間の間に、隣の席は3組のお客が入れ替わり立ち替わりした。最初は家族連れ、次は若いカップル、最後は50代くらいの女性。この女性は途中までひとり静かに過ごしていたのだけれど、途中から携帯電話で誰かと話し始めた。

 

「今○○のマクドナルドにいるのよ。奢ってあげるからおいでよ」

 

その声はかすかに掠れて、どことなく甘い。なんだか「奢ってあげるからおいで」って切ない響きの言葉だなぁと思った。でも、そう言いたくなるようなときって、確かにある。どうしても今この時間を誰かと会って話したい、そのためならマクドナルドの代金くらい厭わない、みたいなとき。

30分くらいして、こちらも50代くらいの男性が彼女の向かいに座った。「奢ってあげる」というくらいだから旦那ではないだろうし、恋人なのか、会社の同僚なのか。とにかく女性は嬉しそうだし、この男性なら「じゃあ約束通りビッグマック奢ってもらおうか」とも言わない気がするのでよかったと思う。

けれど、50代の男女が日曜日の夕方、マクドナルドで向かい合って話し合っているのは、なんだか胸がざわめくものがあった。これが飲み屋とかなら意識しないはずなのだけど、なぜだろう。2人が親密そうであればあるほど、マクドナルドの明るい店内が孤独感で満ちていく。

いたたまれなくなって、席を立つ。私はまたイヤフォンをして徒歩で家路に着く。それでいい。私はそうすることが好きなのだ。マクドナルドの孤独から、日曜日の夕方の孤独から、私は歩いて逃げる。

パイナップル、台湾人の元彼イヌ、傷

パイナップルが好きだ。いつからかわからないけれど、旅行先の朝食がビュッフェ形式だったりして、しかもフルーツコーナーにパイナップルがあったりすると、銀色のトングでがつがつ皿に盛り付けてしまう。

家で食べるときはもっぱらカットパインを買っていた。小さなパックに入ったアレだ。

でもスーパーで買い物をしていたとき、ふとホールパインの方が得なことに気づいて1つ買ってみた。うまかった。それ以来、機会がある度にホールパインを買っている。

パイナップルは追熟しない。追熟というのは、バナナのように、買ってしばらく放置しておくと甘味が増すというあの現象を指す。でも、パイナップルはそうあらない(騎士団長風)。常温で放置しておくと酸味が抜ける分甘味が増すようだが、大した差ではないだろう。だから、うまいパイナップルを食べる為には、購入時にいかにうまいパイナップルかどうかを見極めることが重要となる。

一般的には、色がやや黄色がかっていて、お尻から甘い香りがするものが良品らしい。私はそこまでパイナップルの「甘さ」にはこだわらないので割に適当に選んでいるけれど、この一説をひとつのガイドラインとして頭の隅には置いている。そして、今のところはずれはほとんどない。

恋人を選ぶときにもこんなシンプルなガイドラインがあったらな、と思った。いや、きっとあるのだろう。真面目に働き、清潔感があり、誠実であれば良品、といったようなものが。そのガイドラインに沿えば最低限はずれはない、といったようなものが。けれど誰しもそこに満足はしない。パイナップルの甘さにはこだわらない私であってもだ。

留学先で台湾人の彼氏ができて、暫く付き合ったことがある。名前はイヌ。イヌは自国のフルーツの美味しさをよく語っていた。というか、フルーツ以外の食べ物についても、いかに国の料理がうまいかをよく語っていた。台湾人って自国の食べ物についてすごく誇りを持っている気がする。私自身は台湾の食べ物ってまちまちだと思っているので(いかんせん甘いし脂っぽい)、両手を挙げて彼に賛同はできなかったのだけれど、パイナップルだけはたしかに彼の国の方がうまそうだと感じた。

ホールパインを買うのに今まで躊躇していた理由はひとつしかない。切るのが面倒だからだ。パイナップルというのは果肉のみで考えるとずいぶんシンプルな果物だ。なにせ種がない。ミカンのような筋もない。けれど、いかんせん皮とヘタがゴージャスすぎる。何をもってそんなに刺々しい外観を保っているのかとつくづく思うけれど理由はわからない。もしかしたらパイナップル自身だって「もっと飾らずありのままで生きたいんだけどなァ」なんて思っているかもしれない。100%自分の外見に満足している人間が存在しないように。

インターネットで「パイナップル 切り方」なんて検索してみたら意外と簡単で拍子抜けした。ヘタを抜き取る。半分に包丁を入れる。芯を切り取る。メロンのように皮と身を外す。以上。適当にカットした身をタッパーに保存して、いつでも好きなときに食べられる。

切り方は簡単でもまだその作業に慣れ切っていないものだから、1度誤って指を切ってしまった。大した傷でもないので気にせずそのままパイナップルを切り終えたけれど、いくつかの果肉には血の赤色が滲んでいた。私は気にせず口に放り込んで、その甘味を味わった。これは実際すごく甘いパイナップルだった。

ふとイヌのことを思い出す。彼と別れたときは相当荒れた。短い付き合いだったけれど、その間に色んなことがあった。思えば恋人と破局したことだって、片思いの人とうまくいかなかったことだって経験としてあったのに、純粋な「失恋」を経験したのはあのときが初めてだったような気がする。はじめての外国人の恋人だったからかもしれない。彼の国へ行って、一緒にパイナップルを食べるチャンスはもう2度と来ないのだ。

指からはいまだ血が流れていた。痛い。まあまあ痛い。けれどそのうちに傷が固まることを私は知っている。そして、血なんてこうも甘い。どうってことない。黄金のシンプルな果肉を咀嚼しながら私はそう思う。

バイリンガルニュース、使える日常英語フレーズ、相槌の重要性

過去に1度削除した記事なのですが、色々と思うところがあったので、修正して再掲載したいと思います。

 

バイリンガルニュース」をたまに聴いている。私が説明するまでもないかもしれないが、これは日本生まれ日本育ちバイリンガルのmamiさんと、日米ハーフのマイケルによるPodcast番組。mamiさんは日本語、マイケルは英語で毎回さまざまなニュースを紹介してくれる。トピックスは政治から科学、宇宙、恐竜、LGBT、はたまたSEXやへんてこなものまで多岐に渡る。2013年、爆笑問題太田光氏が「英語勉強しようと思ってたら面白いPodcast見つけた」と自身のラジオ番組で取り上げたことが火付けとなり、今現在まで(ほぼ)Podcast総合ランキング1位。

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バイリンガルニュース」を聴き始めたのは2016年の12月頃。英語学習用の 英語学習用のPodcastを色々探っていたのがきっかけだった。初めて聴いた感想は「マイケル何言ってんのか全くわっかんねー!」。しかも、会話が白熱するとmamiさんも英語話し出すので、そのときは「もうなんか、全っ然わっかんねー!!」だった。

ただ、私はmamiさんの声と英語発音のファンだったので、続けて聴いていた。トピックも興味深いものが多いし、ニュースを紹介し終わった後で2人がだらだらと話してる感じも楽しかったからだ。

そんなこんなで、私もなんとか会話の8割を聞き取れるようになった。

 

バイリンガルニュース」のいいところは何より「今を生きている若者のナチュラルな英会話」が聴けるところだろう。

英語学習用のPodcastは数多あれど、ほとんどが「テキストブック」に近いものなので、反射的なレスポンス等を学ぶには不向きと感じた。

その点「バイリンガルニュース」は、2人の若者が(同世代だけれど)興味深いトピックをひたすら英語と日本語の「会話形式」で話しているので、相槌の仕方が学べる。個人的にこれはすごく重要だと思う。

映画やドラマから学ぶという手もあるのかもしれないけど、「その表現」が実際に今の世の中で「ナチュラルかどうか」「失礼にあたらない表現なのかどうか」を計り知ることは難しい。それならば、リアルタイムを生きている2人の生の会話から学ぶ方がよっぽど確実。私はそう思う。

 

ということで、

私が「バイリンガルニュース」でよく耳にし、実際によく使用するフレーズをご紹介します。

 

1:"Weird" 「変だよ」

 「それ変じゃない?」「おかしいよ~」というときに使えます。とりあえず「なんなの?」って感じたときは全てこれでOKです。

「He seems weird. What's going on with him?」

 (彼、なんだか変よ。どうしちゃったの?)

「I've heard that he was dumped by his girlfriend.」

 (彼女に振られたらしいよ)

 

2:"Right" 「うん」

「Right」って「正解」「合ってる」って意味だと思っていた。私だけ?でも、mamiさんがよくマイケルの話を聞きながら「うんうんうん」というテンションで「Right, right, right.」って言うんですよね。「うん」=「Yes」だと思っていた私にはかなりの衝撃でした。

「You know what you did to me? You were late for our date and...」

 (君、僕に何したかわかってるの?デートに遅刻してそれで…」

Right, right, right

 (うんうんうん)

 

3:"For sure" 「確かに」

同意するときに使えます。「確かに~」「もちろんだよ」という感じ。

「It's obvious that she didn't feel anything!」

 (彼女はなんにも気にしちゃいないんだ!)

「She must be regletful for her behavior, for sure.」

 (彼女だってもちろん行いを反省してるはずよ)

 

4:"I guess" 「だろうね」

 「I think」より断定の度合いがやや落ちる表現。「だよね!!!」とは言い切れない「そうだろうねー」「だと思うんだよねー」という感じのニュアンス。私を含め、日本人には重宝する表現かもしれません。

「Even though he acts like that, he is going to make a new girlfriend soon, right?」

 (彼あんな風に振舞っててもどうせすぐに新しい彼女作るんでしょ?)

I guess so.」

 (だと思うよ)

 

5:"Do you know what I mean?" 「わかる?」

 直訳すると「私の意味してること、わかる?」です。自分の話していることが相手に伝わっているかどうか、確認したいときに使えます。私は英会話の先生と話していて、自分の英語が伝わっているのか不安に感じた時、このフレーズをよく使いました。

「I think that she didn't mean to hurt me, but it's not the point. Do you know what I mean

 (彼女は僕を傷つけるつもりなんてなかったんだと思うよ。でもそこは重要じゃないんだな。わかる?)

 

私がスピーキングの練習を始めたときに苦労したのが「相槌の打ち方」だったので、そちらに偏ったラインナップになりました。お役立て頂ければ嬉しいです!

 

友人が失恋した話、活字と実際の言葉の間、鎧の内側

「恋人にフラれた」

 

しばらくぶりにLINEをしてきた友人がそう言う。1年程付き合った恋人だったそうだ。はて。私は彼女に恋人がいたことすら知らなかった。けれど、明らかなのはただひとつで、恋人と別れることはいつだって誰にだって辛いことだ。街中に立って、誰彼構わず「私はいま世界一かわいそうな人間なんですよ、どうにかしてよ」と話しかけたくなるくらい辛いことだ(実際そうしたところで残るのは惨めさだけなので、多くの人はそうしない)。だから彼女が私に話しかけてきた理由はわかる。

話の筋に少し関係するから書いておくと、友人はほぼレズビアンだ。なぜ「ほぼ」かというと、彼女にはかつて男性の恋人がいて、今でももしかしたら男性とセックスくらいはできるんじゃないかという私の予測にある。けれど本人は否定するだろうし、実際、彼女と知り合ってからの6年間、歴代の彼女の恋人はすべて女性だ。今回、不幸にも破局してしまった恋人も例に漏れず。

別れた理由は割とシンプルで、彼女(私の友人)が恋人の仕事のスタンスにケチをつけたかららしい。率直に言うと、彼女の恋人は29歳にしてアルバイターだったそうだ。彼女からすればそれは不安の種でしかない。だって彼女はレズビアンとして生きる覚悟がある程度できている。それはイコール自分を自分で食わしていかないといけないという覚悟だ。ヘテロのカップルでさえ今や女も働かないと、という時代なのに、レズビアンのカップルだったらその意志はもっと固いだろう。それなのにアラサーでアルバイターで将来のビジョンを持たない(らしい)恋人の存在が彼女を悩ませたことは容易に想像できる。

 

「まあどうしようもないよ。縁がなかったんだろうね」

 

彼女は言う。まあおっしゃる通りなのだけど、1年付き合った末の結論としてはあまりにあっさりとしすぎている。なんとなく気にかかったものだから私は彼女に直接電話を掛けてみた。

 

「もうベッドだよ~…」

 

生気のない声がそう言う。まだ21時前なのに。聞けばロクにモノも食べられず、体はペラペラらしい。LINEのメッセージとは裏腹に、実際の声として聞く彼女の言葉からは未練未練未練、それしか感じられなかった。いまだに元恋人と連絡を取っているし、週末にはその元恋人へ会いに東京まで行くという(彼女は福岡在住)。

こんなことがあるから実際に声を聞くという行為は大切だと感じる。人は自分の意思に反して何かを失くしたとき、虚勢を張ろうとするものだ。なんでもないと、平気なんだと。それは自分を惨めな存在たらしめたくないからだ。街中で「自分は世界一かわいそうだ」と叫べないように。誰だって自分の人生を自分の思い通りにいかせたい。でもそんなことはできない。人生は舞台で、そのシナリオは神のみぞ知るのだ。

人の虚勢は活字のメッセージに顕著に表れる気がする。文字を打つという行為には、実際に話すよりいささか理性を働かせる間があるのだろう。言葉にできることに本当のことなんてない、という気さえする。とにかく実際に声を使って「どうしたの?」と聞いてみると、彼女達の心は容易く、ほろほろとほぐれる。涙を流す子だっている。彼女達の強がりは、毛を逆立てて威嚇する猫を思わせる。だからたまに笑ってしまう。

 

なんだよ、辛いならそう言えよ。

 

そして、私は彼女達の鎧の内側の柔らかく繊細な部分を心から愛する。どうしたってこんな可愛い子たちが辛い目に遭わなければいけないのかと苦しくなる。

パートナーがいるから人生万々歳というわけではもちろんない。けれど、ヘテロでもレズビアンでもゲイでも自分のかたわれを探す行為は極自然なものだと私は思う。だから、せめて私の好きな人達が愛おしいと思える人に出会い、その人が彼女達の柔らかい部分を愛してくれるといい。猫のように甘やかしてくれるといい。

村上春樹について、アンチハルキスト、私が知らなかったこと

昨日は、村上春樹の『騎士団長殺し』を読んだことを書いた。

思えば「最新作」をタイムリーに読むという読書体験は私の人生で初めてのことだった。なんとなく新しい本って信用できなかったし、「古典こそ最高峰」という考えが根付いているせいもある。その割に読んでないんですけどね、古典。

けれどふと、作品にはその時代時代の流れや事象が少なからず反映されていることを改めて思い知った。

例えば村上春樹地下鉄サリン事件を受けて書き上げた『アフターダーク』があるように、80年代の匂いがする『風の歌を聴け』があるように (実際は80年代の空気なんて知らないのですが)。それで「今」の時代が反映されたものをタイムリーに読めるのは幸福なことかもしれないと思い至ったわけだ。

 

思えば大学生のときは村上春樹って好きじゃなかった。当時付き合っていた彼氏が村上春樹を好きで何冊か持っていたものだから借りて読んだけれど、大半のアンチ村上春樹が感じるように「いけすかない」と感じた。それと同時に、当時の彼氏のこともなんだか見下していた。こんな作品が好きなんて、意味がわからないと。なにもわかっていないと。当時の私は傲慢の極みで、自分の好きなものはなんでも恋人に認めて欲しいし、自分の好きじゃないものはなんでも認めたくなかった。

ただ、数年前に『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』を読んでから、なんとなく自分の中で村上春樹作品への感じ方が変わって、それから何冊かエッセイや短編集も読んだ。相変わらず意味がわからないと感じるときも沢山あるのだけれど、それでも積極的に好意を持てるようになった。『東京奇譚集』なんてものすごく大好きだ。

 

NHKの「現代クローズアップ」で村上春樹特集をやっていたので見ていたら、アンチ村上春樹派として有名な爆笑問題太田光氏と、有名(らしい)レビュアーの男性がそれぞれの見解を吐露していた。双方に共通する点をまとめると「いけすかない」「人間が描けていない」「孤独な人間がブランデー傾けて香りを楽しむかよ」ということになる。

私もかつては主人公に「ビール飲んでフライドポテト摘んでジャズばっかり聴きやがって!」という感想を持っていた人間だから、彼らの言わんとすることはとてもよくわかる。

ただ今考えると、それもずいぶん表象的な考え方だったなあと感じる。

というのも、私達の中にはどうも「理性を失って感情を顕わにすること=人間の本来の姿」みたいなイメージがあるようだ。だから何が起こっても平静(に見える)「僕」が胡散臭くて仕方ないのだ。「僕」のそういったいけすかない言動がまさに、読者が「僕」へ共感を持つことを妨げてしまう。

でも村上春樹のエッセイを読んでいると、彼自身、窮地に立たされても「僕」みたいにやってのけちゃうんじゃないかって気がしますよね。「僕はこういうときでもブランデーを傾けるし、ジャズの音色に身を任せるけど、皆さんは違うんですか?やれやれ」って感じで。

そのために、彼は毎日早寝早起きをする。明るいうちに仕事をし、野菜と魚中心の食事を取り、走ったり泳いだりする。これはすごく納得がいった。ああいう世界観をコンスタントに健康的な精神下で書き出していくって、大変な作業だと思う。私の想像なんかよりもずっと。だから肉体と精神を保つために、徹底的に規則的な生活をしているんだろうと。

 

村上春樹の主人公はなぜこうも女に困らない?」って意見を目にしたことがあるけれど、それはもちろん主人公が女から見て魅力的だからだ。彼らは(だいたいにおいて)派手さはないけれど、清潔感があって、それなりに仕事をして、自分の趣味の世界的なものを持っている。そして、女の突拍子もない話にもきちんと耳を傾け、丁寧に相槌を打ち、ときにはユーモアやウィットに富んだ返しをする。

例えば『騎士団長殺し』上巻269ページ 女性とのこんなやり取り

「そして左手で乳房をもみながら、右手でクリトリスを触っていてほしい」

「右足は何をすればいいのかな? カーステレオの調整くらいはできそうだけど。音楽はトニー・ベネットでかまわないかな?」

こんな男、女が放っておくわけがないのだ。私が男だったら女にモテるため、それだけの目的で村上春樹の全作品を読破するだろう。

 

ただ私は最近、彼の作品の主人公達に対して、そこにある静かな死、そして生きようともがく意志みたいなものをすごく感じる。実際に『騎士団長殺し』の「私」はその傾向がすごく顕著だった。今までの作品にないくらいわかりやすい。静々と痛みに耐えることは辛いことだし、何があっても理性的に生活を送っていくことはある意味すごく人間的だ。生々しいものを生々しく吐露しないという意味で。

「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」         ──『風の歌を聴け』             

 

もしも、村上春樹が好きだった当時の彼氏にまた会う機会があるなら、私は彼を馬鹿にしていたことを心から謝りたいと思う。彼はわかっていないんじゃない。むしろ私がわかっていたのだ。私がわからなかったこと。村上春樹の作品達を。遠藤周作の『沈黙』を。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を。

騎士団長殺し、イデアとメタファー、日記ブログの昔と今、藤森直子 『ファッキンブルーフィルム』、私が日記を書く理由

村上春樹の『騎士団長殺し』を読み終えた。

 

私は人の書いたレビューを読んでいないので、あくまで自分が感じたことしか書けない。けれど、私にとっては、今回はだいぶわかりやすい作品だった。

村上春樹は現代人が喪ってしまったものを書いている」と、人とも話したことがあるけれど、今回はそれがとてもわかりやすく描かれている気がする。ざっくり言うと、この『騎士団長殺し』は、「イデアやメタファーを信じられる人間」と「そうでない人間(現代人)」の世界を対照的に描いている(と私は感じた)。前者はもちろん「私」や秋月まりえで、後者は免色だ。

物語の初め、主人公の「私」は喪われた人間だった。

けれど、さまざまな体験を通して彼は「イデアやメタファーの可能性」。「言葉では表せないもの」それを取り返したんだと思う。そして、それを次の世代に伝えていきたいのだと思う。ラストシーンで彼が我が子に「騎士団長と本当にいたんだよ」話しかけたように。

今はどうしても「騎士団長」を信じる人間が少なくなってしまったんだろう。

 

私は、日記を書きたくてこのブログを始めた。

ぶっちゃけると、最初はアクセス数狙いで、人にダイレクトな有益さを与えられるような、「私が1週間で5kg痩せた方法5つ」みたいな情報満載ブログにするつもりだったのだけれど(そんなダイエットもしたことないけど)、どうも向かなくて辞めた。

学生時代もこういう日記サイトみたいな、ブログみたいなものは持っていたし、周りも散々やっていた。私はなぜかそういった「人の日記」を見て回るのが大好きで、気に入った人がいれば、その人の日記ページをすべて紙にプリントアウトして(膨大な量だった)、好きなときに読めるようにしていた。

私からすれば「ブログ」という媒体は、あくまであの頃の「日記サイト」の延長のようなものだ。けれど、昨今のブログはすごくプラクティカルなものなんだと思わずにはいられない。いかに人の役に立つものを提供し、注目を集め、ページを見やすくして、PV数を稼ぎ収入に繋げるか。そういうテクニックみたいなのをよく目にした。

実際、私がなにかネット検索したときも、その答えを明確に示してくれるのは誰かが書いたブログだったりする。

ただ、先に述べた通り、私にはそういったものは書けなかった。むしろ、役に立たないようなことしか私は書けない。理由はふたつある。

ひとつは、私が実際、役に立てるようなものを何も持っていないから。

ふたつは、私はいまだあの時代の「日記サイト」の散文達に強く心惹かれ続けているからだ。

 

いまだに読み返してしまう「日記」の中に、藤森直子さんという方が書いた『ファッキンブルーフィルム』という本がある。そうだ、彼女の日記は本として発売されているのだ。

ファッキンブルーフィルム

ファッキンブルーフィルム

 

 これは、バイセクシャルのSM嬢である著者が、彼女の日常や、彼女を取り巻く人達について赤裸々に書き留める、といったものだった。

実のところ、なぜこの人の日記を読み続けてしまうのか、私にもよくわからない。 

彼女の日記を見つけた当時の私は学生だったし、バイセクシャルの目線で語られる人間関係はなかなかにセンセーショナルだったけれど、今はそうでもないはずだ。それこそ似たような内容の日記ブログは沢山あるだろう。一度読んでみれば、それこそ全部プリントアウトしたくなるような日記に出会える可能性もあるだろう。けれど、絶対的に言い切れるのは、私は『ファッキンブルーフィルム』のように執着できる日記とは2度と出会えないということだ。それは、今の日記ブログが廃れているとかって訳ではない。ただ、私が「あの頃のように」は好きになれないというだけだ。そういうことって往々にしてある。たとえば私は漫画の『スラムダンク』が大好きだし、今もたまに読み返すけれど、今現在「あの頃のように」好きという気持ちにはなれない。

 

私が『ファッキンブルーフィルム』の中で特に好きな記事を少し引用したいと思う。それは、藤森直子さんが学生時代を回想したものだ。

彼女はそのとき高校生で、同じクラブの同級生「貴ちゃん」に淡い恋心を抱いていた。「貴ちゃん」は活発なスポーツ少女という印象だが、現在(日記が書かれていた当時)、なんらかの理由で精神に異常をきたしており、病院にいる。 

『十五の春と十七の秋と自転車の後ろ 三月二十日』

───昼過ぎに、貴ちゃんを自転車の後ろに乗せて駅まで送った。徹夜明けの二人はもう眠くて、何も喋らなかった。

抜けるような青空が目に染みるだけだった。十七の秋だった。

何かでへこんだ時、私は眼を閉じてあの秋の日に帰る。

 

この、たった4行の文章を今までどれだけ反芻してきただろう。そして、時には物悲しく、時には励まされただろう。

私とこの文章の関係性に、プラクティカルなものはなにひとつとしてない。けれど、この文章は確実に私の人生を支えてくれたのだ。

それが「イデアやメタファー」なんだと私は思っているし、そういったものを心の底から愛している。

 

あの文章への憧憬があるから、私はこうして日記を書き始めたんだろうなとさえ思う。

とりあえずやってみますか。毎日書き続けることを目標にして。