結婚していたかもしれない、自分が自分でいること、2組の親子

大人になったら、結婚して子供でもいるんだろうなぁと、昔は漠然と思っていた。だが大人になった今、そうはなっていない。友達も半分くらいは所帯を持っているけれど、半分くらいは私と同じ独身で、ときどき恋人がいたり、いなかったりする。

「結婚問題は相手がいないと始まらない。だからひとりで頭を抱えても仕方ない」というのが今の私の考えだ。

けれど「こうなっていたはずの自分」から外れているという状況は、たまに絶望的な発作を起こさせるものだ。そして、何かがおかしいんじゃないかと疑う。原因を自分の中で探し始める。過去にとんでもない間違いを犯したんじゃないか。実は自分は人格破綻者なんじゃないか。自分が自分であることに不安を覚える。どこかまったく違う場所へ逃げたくなる。でも「ここ」以外に行ける場所なんてどこでもない。何があっても、自分と手を離してはいけないのだ。「僕が僕をやめること それがいちばんいけないことだよ」とcali≠gariが歌っていたように。

 

DVDをTSUTAYAへ返しに行った帰り、親子連れの自転車を見かけた。母親は金髪のボブスタイル、服装は全体的に黒っぽく、ミニスカートにオーバーニーソックスを履いていた。格好からしても、20歳を少し過ぎた頃だろうか。とにかく若い。彼女は道の真ん中で、2歳くらいの男の子を自転車から下ろしているところだった。男の子は母親のショルダーバッグを片手に掴んでいて、おぼつかない足取りで2、3歩よちよちと歩き、同時にショルダーバッグを地面でずるずると引きずった。

「何すんのよ!!!」

母親は叫び声を上げ、怒涛の勢いで男の子の手からバッグをふんだくった。男の子はこてんっと後ろ向きに倒れた。そして泣き出した。もちろんだ。彼の体重からすれば、その力のなんと強かったことだろう。「あーあーもう!!」男の子の泣き叫ぶ声より一層甲高い声で母親は重ねた。

「ふざけんなよ!!」

そして忌々しげにバッグの汚れを手で払った。

その何日か後に、公園のそばを歩いていたら、向かい側の道を小さな男の子が泣きながら歩いていた。幼稚園の制服を着ているのと、背丈からして5歳くらいだと思う。母親はどこかと思ったら、男の子の前方20メートル程のところをひとりの女の子がスタスタと歩いている。驚いた。それが母親というより、まぎれもなく「女の子」だったからだ。20歳になっているのかも定かじゃない。明るい茶色のセミロングで、上下スウェットのような服装にサンダルだった。

男の子は彼女の背中を追いかけながら「おかぁさんー、おかぁさんー」と泣き続けている。母親は一切振り返らない。こういう光景はばつの悪いものだけれど、実際に「無視する」という仕打ちをあえて子供に与える母親は少なくない(いいか悪いかは別として)。今回もそうかと若干もやもやしたものを抱えながら私は母親を追い越した。瞬間、彼女が小さく笑っている気配を感じた。そして私は、耳元に収まっている白いイヤホンを認めた。彼女は携帯で誰かと談笑しているのだ。私は思わず目を閉じた。

「おかぁさんーっ、っお、かぁっさんー」

男の子は泣きすぎて、その声は半分嗚咽に近くなっている。そして、その声は母親に届くことは決してないのだ。彼女はその現実を丸ごと遮断して、ないものにしているのだから。

春の柔らかな陽の中で見たこの2つの場面は、本当に胸糞の悪いものだった。せめて雨ならよかった。

 

くそったれ。ガキがガキ育てやがってロクでもねえ。

 

そして、私はこうも思う。

もし私が若くして子供を持っていたら、ああいう仕打ちを我が子にしただろうか。

もちろん答えはNOだ。けれど、誰にそんなことがわかるだろう。

そうだ。あれは「そうなっていたかもしれない自分」だ。自分のバッグを乱暴に扱われて苛立ちを隠せない自分。目の前の会話に夢中で他のことなんてまるでどうでもいい自分。

そうはならないと、いったい、誰が断言できるのだ?

そういう風に思うとき、私は背筋がすっと寒くなる。自分が自分からゆっくりと遠く離れていくのを感じる。そして、慌てて手を掴む。しっかりと自分を抱きしめる。絶対に何があっても離さない。そう、強く強く思うのだ。